アベンジャーズ エンドゲーム@映画館
とにかくナターシャが死んでしまったことが悲しいのだけれど、友人と比べると、どこか割り切って受け止めている部分が、自分は大きいかもしれないなと感じ始めていて、その理由のひとつとして浮かび上がってきたのが“中村勘三郎”さんだ。
勘三郎さんは、2012年の12月5日、突然この世からいなくなってしまった。
うっすらとでも病状が耳に入ってくるようなファンでもなかったので、私にとっては本当に突然だった。
ただただ漠然と病気を治して帰ってきてくれて、舞台の上の勘三郎さんにまた会える。と信じて疑っていなかったのに、だ。
ただただ漠然とソウルストーンを手にして帰ってきてくれて、また会える。と信じて疑っていなかったのに、だ。
うん、スティーブ・ロジャース。
人って、こんなに突然いなくなってしまうんだ、会えなくなってしまうんだ、とあんなに泣いたことはない。
身近な死として祖父母の死などは経験したけれど、覚悟があっての死だった。
こんなにも突然ではない。受け入れるまで、考えたり、一緒に過ごしたりする時間があった。
でもそれが叶わない死もある。
人は突然いなくなる。
私にそのことを今までで一番実感させたのが、あの日、勘三郎さんが亡くなったことで、もちろん勘三郎さんは身近な人ではなかったけれど、演劇の、歌舞伎の熱さを教えてくれた、私が大好きな人の大好きな人で私にとっても大好きな人だった。
そうだ、勘三郎さんもヒーローだった。
ナターシャの死を、不思議といま、この勘三郎さんへの感情と重ねている。
さらに続ける。
この今が、もう、実は勘三郎さんが亡くなってしまったから成立している、愛おしい世界に変わってきてもいる。
いつだって寂しいし、観られるものならまた観たい。と思うけれど、でも単純に、勘三郎さんがご存命であれば、なかったと思うんですよね、あのキャストで、あの時期での、歌舞伎座での『桜の森の満開の下』は。
みたいなことで、トニー・スタークやナターシャ・ロマノフがいない世界で、けれども前に進み続けると、言い方が難しいけれど、いないからこその喜びや強さにも出会える可能性がある、というようなことも、ちょっとだけわかるようになった気がする。
大げさかもしれないけれど、勘三郎さんは思いの外、私の死生観?に影響を与えていて、「仕方がない」と「それでも未来はある」の二点から『エンドゲーム』を捉えた時、ナターシャとトニーの死を受け入れようとしてしまう感情が、人より多く働くのかな、と。
理由その2。
これは、やっぱり友人とやり取りしていて気がついたことなのだけれど、舞台を見た時とかのじぶんの好きの最上級に「戯曲ください!!!!」というのがあって、『エンドゲーム』はまさにそれ。
なんだこのとてつもない偉業を成し遂げたプロットは!
美しい(涙)
プロット美しい(涙)
素晴らしい(涙)
戦争より愛し合おうぜ(涙)
すごいよ、これ(涙)
物語の展開の美しさに泣いた。ゾクゾクした。超ゾクゾクした。天才かよ。
序盤でIW後の敗北感、絶望を見せ、中盤で仲間集め、作戦会議から実行、終盤でアクションと進んでいくけれど、まぁこの真ん中ですよね。真ん中ものすごいと思う。
NEW YORK 2012
とかテロップが出て、あの時、別の場所では…となる、展開の連続。
過去作全て見てきたファンたちへの、これでもかというほどの波状攻撃。
いやもう、思わず、ハイルヒドラ、ですよ。
ここに辿り着くまで21作品もの映画があったはずなのに、どの映画からもぐっとくるポイントが、エンドゲームの流れの中に集約されていて、私ですらこんなに胸が熱くなるのだから、もっともっと深いファンの方々は、もう息できるかできないかの狭間ぐらいまで落とされたと思う。
惚れるわ。
もう一度言うけれど、エンドゲームの流れの中に集約されていた、というのが見事としか言いようがない。
見たかったことが本当に全て詰まっていた。
こんな映画体験ができるのかと、本当に感動して、本当に嬉しくて、本当にありがとう。と思った。間に合ってよかった。
I LOVE 3000.
映画そのものの流れ、物語への「3000回愛してる」がナットちゃんとトニーの死を内包しちゃったんですよね。
だから、おそらく友人よりも死への悲しみ度?が低い。
この流れの美しさは、ナターシャとトニーの死があったからこそ。
もう世に出てしまったからには、別のシナリオが検討されていた、とか言われても取り消せないわけで、現時点で6回見ていても、ナターシャがヴォーミアに行くだけで泣くし、「トニー・スタークにもハートがある」で泣くし、この悲しみに嘘はない、と思うのだけれど、この辛さを含めて丸ごと『エンドゲーム』。
こんなにも毎回毎回いなくなってしまうことが悲しくてたまらなくなる人たちに、映画を通して出会えたことが幸せです。
でもブラック・ウィドウ大好きなので、最終決戦にナターシャがいないこと。
キャプテンマーベルを私たちが守る、と集結する女性ヒーローたちの中にナターシャがいないこと。
これから何度『エンドゲーム』を見ても、見るたびに「ここにいるナターシャが見たかった」と思い続ける。
今だって、あの戦場にいるナターシャの姿をずっと探している。
そして、もしかするとアベンジャーズのみんなも、特にオリジナル6たちは、こんな自分と同じようにナターシャを思いながら戦っているのかもしれない、と想像で共感して、みんなのことが大好きだと思いながら、祈るようにあの決戦を見つめている。
そして、このナターシャを思って戦った気持ちをも、あのクリントとワンダのシーンが受け止めてくれるのが『エンドゲーム』。
もう至れり尽くせり(涙)すごいこの映画(涙)
まずは上映が終わるその日まで、そしてその後も、大切に見続けたい作品。
また見終わったら、チーズバーガー食べるんだ。